平泉旅行の思い出

 筆者は2018年夏に友人たちと仙台・松島・平泉に旅行した。

 訪問先についてはわがままを寛大に聴いてもらい、大崎八幡宮陸奥国分寺、仙台東照宮青葉城、松島、塩釜神社多賀城毛越寺中尊寺などをめぐることができた。行き先からわかる通り、「奥の細道」を読んだ直後の旅行である(友人たちが読んでいたかは知らない)。3日目の行程を考えておらず、山寺か平泉、としていて、高速バスに間に合ったので平泉に向かうこととなった。もう一泊できれば必ず山寺を訪れていただろう。

 仙台からバスで1時間ほど揺られ、まず毛越寺に向かった。美しく整備された浄土式庭園に、復原船が浮かべられており、やや違和感があった。個人的には茅葺の常行堂のたたずまいが好ましかった。

毛越寺常行堂

 中尊寺では金色堂はもちろんなのだが、白山神社、旧覆堂なども楽しみにしていた。旧覆堂は中世建築である上、芭蕉はこの建物とそれに護られた金色堂を眺めつつ「五月雨の 降り残してや 光堂」の舞台となったのではないかと想像が膨らむ。

楓と旧覆堂

 

 「奥の細道」を読む以外の予習はしていかなかったので、中尊寺が思いのほか高所にあることに驚いた。境内からは北上川とそれに沿う東北本線、さらに北側のなだらかに続く丘陵がよく見えた。8月の末のことだったので、稲穂の色づきも見事だった。

中尊寺から望む東北本線北上川

 現在の覆堂はいかにも頑丈そうなコンクリートの建物で、それのみならず金色堂はガラスにも覆われており、ほとんど美術品の扱いである。おそらく大きめの玉虫厨子を保護するような発想なのではないかという気がする。なるほど縁の支柱も華奢で、阿弥陀如来をはじめとする仏像も見事なものであるから、風雪はもちろん、湿気もできる限り遠ざけねばならないのであろう。

 しかし、どうにもガラス越しというのは神仏を拝むには向かないと思われてならない。「保護」すべきものは「モノ」としての金色堂だけで良いのか、あるいは周囲の環境の中にあって、信仰心の対象としての金色堂なのか。しかしまあ、鎌倉時代にはすでに覆屋があったというから、中世の人にも「風雨から守らねばならない!」と思われたのかもしれない。あるいは、単に金色のお堂、仏像を守るというだけではなく、さほど太くない柱では北国の積雪に堪え得ないと考えられたゆえなのか。いずれにせよ、「五月雨の降り残した」元禄期の金色堂は間違いなく覆堂の中に鎮座していたのである。

 

 この訪問時には巴水のことも知らなかったのだが、偶然夏の午後の陽ざしの中、巴水の作品とは対照的な季節の写真が撮れていた。

中尊寺金色堂

 

 この年の夏はありがたいことに長野、尾道なども旅行できた、思い出深い年である。 

 実はこの時より後、白河の関を超えるような旅行ができていない。尿前の関も象潟も山寺も、いつかきっと訪れよう。寒河江慈恩寺南陽熊野大社丸森の愛敬院、角田の高蔵寺、八戸の清水寺弘前、黒石、仁賀保、矢島なども行ってみたい。

金色堂の雪

 1日に恵比寿の写真美術館で開催中の土門拳「古寺巡礼」展を観覧した。唐招提寺毘盧遮那仏、千手観音、鳳凰堂の夕景、永保寺の無際橋、本薬師寺薬師如来円成寺大日如来などすばらしい作品が数多くあったのだが、その中にあって特に目にとまったのが中尊寺金色堂の雪景(1961年)である。

 説明書きに、土門が雪の写真を撮りたいと考え、中尊寺からの雪が降った旨の電報を待つこと数年であった(!)というような記載があり、芸術としての写真がいかに生まれ難いかを垣間見たような気がする。

 写真は雪が降った翌朝の中尊寺金色堂(旧鞘堂)屋根とその周囲雪が積もり、午前の柔らかな日が当たっている様子である。どれほど時間をかけてどのように移動したのかもわからないし、この構図をものにしたときどのような心境だったのか想像もつかないが、見事な、いつかこういう風景を撮影してみたい、せめて目の当たりにしたい、そう強く感じる光景である。

 

 この写真を見て一つ即座に思い浮かんだことがある。それは、川瀬巴水最後の作品である。巴水にはいくつか中尊寺金色堂の作品があったように記憶するが、巴水の絶筆になったのは雪の降りしきる中、金色堂に向かって1人の僧が歩いていくという構図の作品である。誰かの解説で、この僧は巴水自身である、と述べられていたように思われる。

 

 巴水による金色堂の雪景は雪の降る日の静けさの伝わってくる、物寂しさの漂う作品である。土門の写真はほぼ同じ位置からの構図で、同じく雪の中、旧鞘堂なのであるが、冬の光の中で明るさのある写真である。

 

 こういう作品に触れ、また実物を見る機会を得、それらを相互に反芻して自分の中に蓄え、そのような経験を積み重ね続けたい、と強く思うし、今までに得た、多くはないけれど感動した思い出を大切にしていきたい。

 

 

なお、こちらで巴水の作品が見られる。

growing-art.mainichi.co.jp

 

 

馬込・長遠寺

 前回の記事では高橋松亭の版画とその現状について書いた。ここで取り上げたいのは、八幡社の別当であった長遠寺である。「新編武蔵風土記稿」の馬込村の項では、村の鎮守たる「〔馬込〕八幡社」の別当として「長遠寺」が挙げられている。風土記稿には「客殿」が「六間四尺餘ニ八間半」、「門」が「客殿ノ正面ニアリ海岳山ノ三字ヲ扁ス」としてある。当寺については挿絵もなく詳細は分からないが、現在の境内の様子を見ても江戸時代同様と思しき雰囲気であり、茅葺型銅板屋根の客殿と山門は見事である。

長遠寺・本堂(正面から)

 松亭の版画では八幡神社の社叢が描かれているが、長遠寺の境内は神社の奥側、社叢に隠れる位置にある。今日では八幡神社長遠寺の間にはコンクリート製の塀が築かれており、両境内を全体として眺めたときに現れる神仏習合の趣と、近代におけるその分離の痕跡が可視化されているように思われてならない。

 神仏分離の実施は地域差があることが知られるが、23区内のさほど著名とは言えないところで神仏習合の名残を明らかに留めている寺社があることには深い感動を覚え、また非常に興味深く思われる。

 ただ一点気になることとして、山門前の駐車場が惜しいように思われる。1979年までの航空写真を見ると、門の前から小学校前の通りまで、樹影が確認できる。木立の参道というのは一層の情趣があったのではないか、という気がする。1984年の航空写真では自動車が南北方向に停まっているように見え、1980年ごろ変化したのであろうか。

長遠寺山門

 昨夏以来二度にわたって参拝する機会があり、その度にこの本堂をどうにかスケッチできないか、と考えているのだが、うまく画角を見つけられぬままにいる。先日湘南新宿ラインに乗車していたところ、西大井―武蔵小杉間の東側の車窓から段丘上の本堂の大屋根が一瞬裏側から見えることに気づいた。車窓から、というわけにはいかないが、馬込から池上にかけての地形的特徴と歴史ある本堂とをあわせて描く、というのを当面の目標にできれば、と考えている。

長遠寺・本堂(馬込八幡の本殿裏側から)

 

馬込の風景

 新版画家の高橋松亭(1871~1945)に「馬込」という作品がある(1922年)。ちょうど今の季節、あるいはもう少し後の4月初~中旬の情景を描いた作品であり、春の雨の中に菜の花畑と一本の桜とが浮かび上がる趣深い構図である。私は昨夏、茅ヶ崎市美術館の新版画展でこの作品に初めて出会った。春の雨の中、モノトーンな基調の世界で、菜の花と桜の淡く落ち着いた、それでいて彩のある色調が引き立てる盛春の幻想的な景色。さらにそのような景色と、その中にあって牛を引きゆく人物がもつ日常性とのコントラストに言い得ぬ感動を覚えた。「第三者の地位」(『草枕』)に立って表現し得た作品、ということもできるのかもしれない。先月の川瀬巴水・松亭の作品展(大田区郷土博物館)でこの絵を再び直接目にする機会を得、大いに喜んだところである。

高橋松亭「馬込」(パブリックドメイン美術館サイトより。URLは下記)

 素材となった場所は今日大森から荏原町へのバス通り、馬込小学校と馬込八幡神社とが向かい合うところで、南側から眺めたものと思われる。およそ今日の情景からは名残を探すことも難しい風景である。画中に描かれたもので今日辿り得るよすがは、八幡神社の鳥居ではなかろうか。今日では木造鳥居であるが、位置は同じと思われる。なお、「新編武蔵風土記稿」の馬込村の項では「八幡社」について、本殿―拝殿の「前ニ石ノ鳥居ヲタツ」と見えており、画中の鳥居はこれと同じものかもしれない。

 鳥居と道路を挟んで向かい合う茅葺の建物群が今日の馬込小学校、当時の「馬込尋常小学校」である。校地は同じであるが、建て替えられており、今日もちろんこの作品発表当時の校舎の面影はない。手元ですぐ見つけられるようなものしか参照していないが、1945年5月24日の空襲で部分的に焼失したということもあったようである。なお、小学校のすぐ南側の民家にかつての校舎の時計台が移築されており、公道からも見ることができる。今では時計こそ止まっているものの、薄緑色の明るくモダンな外観を呈している。1925年築というから、この絵の描かれた後、関東大震災の直後に建てられたものである。

 松亭の作品が発表された後の時期、同地域は大震災、さらには戦災に遭っており、さらにその後都市化が進展し、その面影の追跡は今日ではもちろん難しい。上で述べた時計台の建築は、松亭が描いた時とおそらく3年ほどしか変わらないが、その3年は茅葺屋根から西洋建築への変貌を見た3年だった。この対比は、近代そして現代へと移り行く大きな変化の象徴と言えるだろう。

 しかし今日でも、この地域では東側に万福寺もあり、恐らく戦前からのものと思われる民家が点在するなど、かつての馬込村の雰囲気はどのようなものだったのだろうか、と想像する手がかりはあるように思う。巴水や松亭の作品はもちろん、郷土博物館の模型や古写真もそのような想像力を十二分にかきたててくれる。

 21世紀が20余年すぎた今日、冒頭に掲げた松亭の絵に見られるような、いわば牧歌的「近郊」がそのままの形で残っている場所はとりわけ23区内にはほとんど存在しない。だがそれゆえにこそ、その名残を探し求めて出かけ、何らかのものを見つける(少なくとも自分ではそう思い込む)瞬間が絶妙なのだと思う。これからそのような痕跡探しの試みについて、書き連ねられたらと思う。

 

参照:

・『新編武蔵風土記稿』(巻之四十六、荏原郡ノ八)

大田区立馬込小学校沿革(大田区HP:https://www.ota-school.ed.jp/magome-es/guide/history.html(2023年3月13日アクセス))

・「旧馬込小学校の時計台」(大田区HP:

https://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/rekishi/magome/magomeshou_tokeidai.html(2023年3月13日アクセス))

・「東京都の空襲被害」(Yahoo Japan「未来に残す戦争の記憶」:https://wararchive.yahoo.co.jp/airraid/tokyo/(2023年3月13日アクセス))

・高橋松亭「馬込」(パブリックドメイン美術館:https://600dpi.net/takahashi-shotei-0004340/(2023年3月13日アクセス))

レインボーブリッジが青かったころ

2020年、新型コロナウイルス感染症の感染拡大の中で、レインボーブリッジが青色にライトアップされていたことがありました。それなりに写真を撮りためてあったので、歴史的備忘のために公開しておこうと思います。青色ライトアップは医療従事者への感謝を表したもので、19時~20時でした。先の見えない日々に(今もそうですが)、折を見てひとり歩き回ったときでした。

どこまでも青い世界


訪れていました。

プロムナードから。夏至のころの夕焼け

青く反射する海面

台場群と

 

羽田空港からも見えた

 

羽田空港の飛行機が見えるテラスもガラガラで、人がほとんどいない空港の姿に驚いたものでした。

 

この年はやみくもに、感染対策を思い付く限り取入れつつ狭い家に閉じこもることなどからくる精神上の不安定から一人ひたすら逃げようとしていただけでした。